動物の心
動物に心はあるのか?自己認識はあるのか?そして知能はあるのか?というのは興味深い問題である。これらは動物行動学などの分野で研究されている。
- 作者: スタン・フランクリン,林一
- 出版社/メーカー: 三田出版会
- 発売日: 1999/03
- メディア: 単行本
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には動物の心について書かれている(他に面白い話題は山ほどあるが)。一般に、動物は自己認識はあるのか?という疑問に対して、次のことができれば自己認識ができると考えられている。
- 鏡をのぞいたとき、そこに映っているのが自分だとわかる。
- これは次のように確かめられる。鏡の前でしばらく遊ばせたあと、麻酔をかけて眠らせ、その間に額に赤いマークをつけておく。目覚めて鏡の中をのぞいたとき、もし赤いマークが自分についていることに気づいて触ったりすれば、鏡に映っているのは自分だと認識している。
- 自己隠匿
- 自分の身体の一部ではなく全体を隠そうと試みること。これは、自分の身体があることを認識している証拠となる。
- 意図的な欺瞞
- 意図的に欺瞞を行うには、相手が騙されて行動すると思考できなくてはならない。これが自己反省的な心的能力、ひいては自己意識を必要とする。たぶん、相手が騙されるというのを予測するには「自分」だったらどうなるかを予想できなくてはならないということだろう。
1番目の鏡のテストではチンパンジーとオランウータンは成功したが、ゴリラなどの何種類かのサルでは失敗したらしい。わき道にそれるが、ココというチンパンジーは、完全に自己意識を持っていて(いるように見えて:チューリングテストの議論でもあるように確かめるすべは行動を観察するしかない)、自分自身の心について信号を送ることもあるという。ココは身振り言語を使える(とされている)。身振り言語で「プレゼントに何が欲しい」と聞くと「子猫」と答えたり、子猫が死んだとき、「どう感じるか」と聞くと、「悲しい」と答える。これは、確か瀬名秀明さんの『Brain Valey』という小説でも言及されていた。このような能力は一体何なのか?心が本当にあるのか?
この本の著者は心とか自己認識とか知能とかいうのは「ある/なし」の2値で扱えないことを強調している。あるとないのあいだに中間的なレベルがいくつもある。例えば、自己認識に関して言うと、次のようなレベルが考えられると言う。
身体を適切に隠す
彼らの心的処理を観察する
自分自身を修飾(改善?)しようと試みる
鏡の中の自分を認識する
人称代名詞を使う
自分自身に語りかける
自分自身の心的状態について語る
心的状態を他者に付与する
欺瞞を実行する心をもつ機械(p.109)
これらが全てできるのがヒトである。しかし、動物もある段階まではできる。ココは後の6つを行うことができるとされている。つまり、動物とヒトの心、知能の間は連続状態であり、断続されていないと考える。ヒトの知能、心は動物の知能、心の上に成り立っているというのが主張だと読み取った。こういうアーキテクチャはBrooksのサブサンプションアーキテクチャに通じるところがある(と思う)。要するにヒトの知能を作りたかったら、動物のより基本的な知能がまずできていなければならない。
それほど強い裏付けがない信念だが、理性的な心をもつ動物ともたない動物との間に明確な区別はないと私は見ている。さらに、恣意的に線引きするのでないかぎり(注:動物言語を否定するように「言語」の定義を変えることを指している)、言語をもつ動物ともたない動物の間にさえ、明確な区別はないように見える。
心をもつ機械(p.112)
動物にこころ、感情、知能があるのか?というのは昔から激論がかわされていた(らしい、「らしい」ばかりですみません)。デカルトの動物機械論というのがあった。人間を除く動物は遺伝子に完全に支配されていて自由意志を持たないと言う考えが、否定(動物に心はない)派の根底にある。
しかし、自分としてはこれは当然受け入れがたい!尻尾を振って駆け寄ってくる家の犬に、心がない、感情がない、知能がないなんて当然考えられない。ただし、「心は機械で実現できるか」というのはまた別問題である。機械で実現できると信じていても、動物や人間の心、感情、知能を蔑むことにはならない。そこを勘違いされると困る。