AIという言葉
- 作者: ジョージジョンソン,渕一博
- 出版社/メーカー: 日本実業出版社
- 発売日: 1988/07
- メディア: 単行本
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から少し長いけど引用。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の著者ダグラス・ホフスタッターさんの発言。
「ぼくはこの頃では『AI』という言葉も使わないようにしています。ぼくの研究は認知科学だと言うことが多くなりました。もうAIとは呼びたくないんです。マッカーシーやミンスキーやサイモンやニューウェルの出席したダートマス会議。
あのときに誕生したAIが持っていた語感は失われ、今ではAIは何かもっと商業的なものを意味するようになってしまいました。現在、その産業的な部分によって、AIは汚染されています。実用主義的な製品優先主義の取り組み方に完全に走らされている商業的な人々がもたらすものです。
しかも、多くの人は『簡単な』問題はもう解決されてしまったと信じているのが実情です。みんな思い違いをしているんじゃないでしょうか。
・・・簡単に見える問題はすべて決定されていて、AIの本質は、『大量の知識を収めた巨大なデータベースをどう管理するか』だと思っているんです。」
「もともと『人工知能』という言葉は何かサイエンス・フィクションのようなものだったのです。それが、巨大な電子頭脳とか、考える機械とか、思考の核心に迫る探査といったイメージを作り上げてしまったのです。もっとも、今では『もっとすてきな製品がほしい?利口な端末がほしい?じゃあ少しばかり、AIをあげよう』ですからね。昔みたいな有難みはないんです。以前は意味を持っていました。今はまるで無意味なようです。AIとは凝ったプログラミングのことになってしまったように見えます。
だからぼくは別の言葉を使うことが多いんです。『認知科学』はもっとおとなしいですから。こっちは人を興奮させない。だからいいんです。哲学的な面に興味を持っている人たちは興奮させるけど、商業的な人たちは引き付けないんです。」
人工知能の未来は(pp.463-464)
この話はエキスパートシステムがAIの成功として盛んに宣伝されたときのもの。それに対する反発らしい。
『人工知能』という言葉は1956年のダートマス会議でマッカーシーさんが名づけた。この言葉の功罪はよく話題にされている。こんな大げさな名前は付けるべきでなかったという人と、多くの人を惹きつける良い名前だという人がいる。自分は最初後者だった(というか自分も言葉に魅力を感じた)のだが、少しは前者の感じもある。微妙なところ。本当は名前なんてどうでもいいんだけどね。