人工知能に関する断創録

このブログでは人工知能のさまざまな分野について調査したことをまとめています(更新停止: 2019年12月31日)

ウロボロス(Ouroboros)

ラブレス夫人も、バッベジ*1に劣らずはっきりと気づいていたことであるが、解析機関の発明によって、ことに解析機関が「自分の尻尾を食べること」(機械が自分自身の記憶されているプログラムに手をつけ変更するときに作り出される不思議の環を表現したバッベジの言葉)が可能になったときには、人類は機械化された知能をもてあそぶようになる。

ゲーデル・エッシャー・バッハ(p.42)

自分の尻尾を食べる蛇(竜)はウロボロス(Ouroboros)って呼ばれていますね。古代の宗教的な象徴をこういう文脈で持ち出すチャールズ・バベッジ・・・やっぱりいいね(笑)。まあウロボロスが実現できてなくても現代社会は機械化された知能をすでにもてあそんでいると思いますが。

Wikipedia - ウロボロスより引用。

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コンピュータというものは、その本性からして、最も硬直的で、欲求をもたず、また規則に従うものである。いくら速くても、意識がないものの典型にすぎない。それなら、知的な行動をプログラム化することがどうして可能なのだろうか?これは最も見えすいた用語の矛盾ではなかろうか?

(中略)

これがAI研究の関心の対象である。そしてAI研究の奇妙な特色は、柔軟でない機械に、どうすれば柔軟になれるかを教える規則の長い列を、厳密な形式システムのもとで組み立てようと試みる点にある。

同(p.43)

つまり、次の2つが同時に成り立つと信じてないとAI研究は自己矛盾で崩壊する(実際、一般的に言われるAI研究はこういう議論とまったく関係ないんだけど・・・)。

  • 知能は形式システムに見えないが、実際は厳密なアルゴリズムを持つ形式システムである。
  • 厳密な形式システムでも規則に従わない「ように見える」知的な行動を生成できる。

ゲーデル・エッシャー・バッハの第1部は、形式システムとは何か?ということに重点が置かれて解説されている。大学のAIの講義でも形式推論は最初に習うけれど、それが本当はどういう意味を持っているのか深く考えることはなかった。こういう哲学的な考察は非常に興味深い。

話は変わるけど上のラブレス夫人というのはバッベジの共同研究者で世界初の女性プログラマと言われるエイダ・ラブレスのこと。Adaってプログラミング言語の名前にも残っている。肖像画を始めてみたけれどけっこう美人。ファンになりそう。

Wikipedia - エイダ・ラブレスより引用。

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*1:バベッジが普通だと思うけどママ