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人工知能に関する断創録

人工知能、認知科学、心理学、ロボティクス、生物学などに興味を持っています。このブログでは人工知能のさまざまな分野について調査したことをまとめています。最近は、機械学習、Deep Learning、Kerasに関する記事が多いです。



チューリングテストについて考えたこと

チューリングテストととは、「機械は考えることができるか」という問いに対するテスト法として、1950年アラン・チューリングが提案した。隔離された二つの部屋の一方に端末と質問者、もう一方に機械または人間を置き、端末を通じた対話によって質問者は相手が機械か、人間かを判断し、機械を人間と判断してしまったら、この機械は「考えている」と見なしてよいという主張。

前から、この問題については本当にそう主張してよいか考えていたが、最近次のようなことを思いついた。

ヒトは自分以外の他人が「考えている」とどのように判断しているのか。自分が「考えている」というのは、デカルトの「われ思うゆえに、われあり」という主張の通り、認められる(?)。でも他人が「考えている」という判断はこの方法ではできそうにない。だって、自分は他人になれないのだから。では、どうして他人も「考えている」と思うことができるかというと、帰納法を使って、「自分は人間で考えることができる。だから、他の人間も考えられるに違いない。」と思うか、三段論法風に、「人ならば考えることはできる(自明かな?) 」「彼(彼女)は人である」よって「彼(彼女)は考えることができる」と推論しているか、または、相手が「考えている」ように"見える"からとしか言えない。つまり、相手が「考えている」というのは脳を解剖してもわからないのだから、外見的な動作でしか判断できない、と思う。

つまり、機械についても同様で、その機械が「考えている」かは、その機械をばらして中身を見てもわからない。つまり、チューリングテストみたいな外見的な動作でしか判断できないんじゃないか。と考えていた。

今日、「哲学者はアンドロイドの夢を見たか」という本を読んでいたら、これと全く同じことを考えている人がいた(当然か)。

哲学者はアンドロイドの夢を見たか―人工知能の哲学

哲学者はアンドロイドの夢を見たか―人工知能の哲学

チューリングテストを認める立場を関係論的把握、認めない立場を実体論的把握と述べている。関係論的把握は、相手との関係の中で知能のあるなしを把握するしかできない、つまり存在者が一人しかいなかったら、知能は存在しえない。後者は、知能は存在者に内属している性質であり、他者がいなくても存在しうる、と見なす。

実際、AI研究者たちは、「チューリングテストを認める関係論的把握によってしか、作ったプログラムが知能を持っているかテストする方法はない」としていることが多い。AI批判者は「中国語の部屋」のサールのように、実体論的把握でしか知能は認めないとしているが、実際、この立場では知能を持っているかテストする方法がないという問題がある。つまり、人工知能はいつまでたっても絶対にできないということになってしまう(テストできないから)。

でも、チューリングテストにも問題はあると思う。例えば、相手を機械だと判断するのは非常に易しい、という主張があった。どうするかというと、難しい算術演算を質問してみる。もし機械なら"死ぬほどの正確さとスピード"で答えを返してくれるからすぐわかってしまう。チューリングの論文では、こういうことが無いように、人間のようにしばらくしてから答えを返したり、微妙な間違いをするからくりが必要だと述べている。しかし、こんなことは意味の無い努力に思える。チューリングテストを批判する人たちは、こういう人を騙すつまらないトリックを使って、テストにパスさせるようなのは絶対に知能ではないと主張しているのを聞いたことがある。何か新しいチューリングテストが必要じゃないかな。